マタイ6章

6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

 善行をする時、人に見せるためにしないように気をつけるように語られました。それは、天におられる父から報いが受けられないからです。人は、この世での栄誉を求めます。しかし、イエス様は、神からの報いに目を留めるように言われたのです。「天におられるあなた方の神」と言われたのは、この地ではなく、天に目を向けさせるためです。

 そして、善行に対して、父の報いこそ価値があることを示されました。「天に御国に入る」ことが主題として語られていますが、天の御国に入るとは、天の御国で報いを受けることなのです。

6:2 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

6:3 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。

6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 そして、偽善者たちの行いを具体的に取り上げて説明されました。彼らは、人に褒めてもらおうと人に目立つようにしています。自分の前でラッパを吹くのです。彼らは、既に報いを受けています。人からの栄誉という彼らの望む報いを受けているのです。そのような人に父は報いられません。

 施しをするときは、自分自身にさえわからないようにするのです。右の手がしていることを左の手に知られないようにするのです。これは、実際は、不可能ですが、その程度に人に見せるためにしないように言われたのです。

 そのようにするならば、父が報いてくださいます。「隠れたところで見ておられる」と表現されていますが、誰ひとり見られないでしていることも、父は、見ておられるのです。私たちには父の存在について見ることはできませんが、父は、隠れたところで見ておられるのです。

6:5 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 祈るときの偽善者の行いについて取り上げられています。彼らは、人々に見えるようにその場所を選んで祈ります。彼らはそうすることが好きなのです。彼らも、人からの栄誉を受け、自分の報いを受けているのです。

 それで、イエス様は、祈る方法を教えられました。部屋に入って戸を閉めるのです。そうすれば誰も見ていません。その時、父に祈るのです。人を意識せずに、父にだけ向かって祈ることができます。そうしてはじめて父が報いてくださるのです。ここでも、報いについて言及されています。幸いなことは、祈ることで父が報いてくださることです。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 祈るときには、言葉数が多ければ聞かれるということはないのです。父は、祈る人の必要をご存知です。しかし、一方的に事をなさるのではなく、祈りを通して事をなさいます。

6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

 それで、祈りの内容が問題なのです。父に聞かれる祈りは、どのようなものかを教えられたのです。

 御名が聖であることは、初めからのものです。この聖は、俗なるものとは分離していることを表します。「聖なるものとされる」とは、その聖なる御名にふさわしく、人を通して崇められることです。

6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 「御国が来る」ことは、「御国に入る」こととは異なります。後者は、御国で報いを受けることを表していますが、前者は、神様の栄光ある現れが来ることを表しています。

マタイ

16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

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 イエス様が栄光の姿に変わったことが御国が来ることでした。イエス様が栄光をもって支配される時です。

 御国が来ることは、そのように、神の支配が目に見えるかたちで現されることです。そのようになることで、神の御名が聖とされます。

 さらに、御心が天で行われるように、地でも行われることで、神の御名が聖とされるのです。神の御心に人が従うことで、神は聖なる方であるということが現されるのです。御心を行う程度は、天で行われるように行うことが求められています。御使いのように完全に神に服従し、その御心を完全に行うのです。

 このように、人にとって、神の御心を行うことが最も重要なことであり価値あることであることがわかります。そのようにすることによって、神に栄光が帰せられるのです。

6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

 そのように、神の御心を行うという流れの中で、この日毎の糧を求めることが位置づけられています。それは、御心を行うために、私たちの必要が満たされることを求めることです。私たちが必要を満たされることは、証しになり、神の栄光を現すことができます。また、頼って生きることを表しています。そのことも神に栄光を帰することです。

6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 そして、神の前に犯す罪について告白し、赦していただくのです。そのようにして、聖められて歩むことができます。

 そして、罪赦された者として、人間関係において、負い目のある人たちを赦すのは、当然なのです。

 なお、ある解釈として、私たちは、罪赦されて義とされているので、罪を赦してくださいと祈る必要はないというものがあります。誤解を招きやすい教えです。私たちには、犯した罪に対しては、罪の赦しが必要です。その方法は、罪の告白です。

6:13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

 この試みは、悪からの誘惑です。悪からお救いくださいと続いています。神様の許しなしには、悪魔は試みることはできません。私たちは、弱いのです。

6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 そして、罪の赦しについては、さらに追加で説明されました。人の罪を赦さないでは、父も罪を赦されないのです。それで、父の前に罪の赦しを求めるのであれば、人の負い目を赦さなければならないのです。罪赦された者として、他の人の罪を赦すのです。

6:16 あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

 断食について、偽善が行われることを示されました。彼らは、人に見せるためにそれをしているのです。ですから、人にわかるように暗い顔をし、顔をやつれさせるのです。

6:17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

 それで、断食していることがわからないように、頭に油を塗り、顔を洗うのです。人に見せるために断食をするのではないのです。断食は、神の前に行うのであり、神様がそれを評価されます。断食を人に見せるために行い、人の評価を受けようとする者を神様が評価されることはありません。その動機が悪いからです。ですから、肉的な思いが一切働かないようにして、事をなすならば、神様が評価し、報いてくださいます。

 断食は、肉を捨てることを表します。しかし、その動機が肉を表すことであることは滑稽です。

 ここにも。神様が与える報いについて語られていて、天の御国に入ることが神からの報いをいただくことと関連して語られています。

6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。

6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

 偽善と報いについて語られたことがここで総括されています。自分のために地上に宝を蓄えることは、人の評価を受け、この地上で誉れを受けることです。しかし、その宝は、実際の宝がそうであるように、虫やさびで傷物になり、盗人に盗まれ、失われるのです。

 しかし、自分のために宝を天に蓄えることで、失われることがないのです。この宝は、神の評価であり、その報いは、永遠のものです。

 そして、私たちが目を留める宝の在り処によって、私たちの行動の動機が異なったものになることを示されました。宝のあるところに心があるのです。天の宝に心を留める人は、その宝を目当てに行動しますから、神様の評価を期待して、神様の御心を行うようになります。

 天の報いについて、しばしば聖書に記されているのは、それが、私たちが神の御心に従って生きることを強く動機付けるからです。天の宝を求める人は、熱心に御言葉に従おうとします。

 なお、報いを求めないと言われる方もいます。清廉潔白な考え方ですが、イエス様は、報いを求めるように言われたのです。そして、熱心になるように求めておられます。

 十九節から二十四節までは、一つのまとまりとなっていて、地上のものを求めることをやめて、天の宝を求める勧めになっており、三十三節に、「まず神の国と神の義を求めなさい。」と御国での報いを求めるように結論付けられています。

6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、

6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。

 「体」は、その人の生きるさまを表しています。これは、肉体ではありません。比喩になっています。そして、目は、信仰の比喩です。光である神の御言葉を受け入れる部分です。その信仰が健全で、神の御言葉を受け入れることができるならば、その人の歩みの全体が「輝く」のです。「明るくなる」は、外から照らされて明るくなることではなく、原語の意味はそのものが輝くことを表しています。ここでは、その人自身が光を輝かすことを言っており、真理の光を受けた人が、その歩みにおいて、真理の光を輝かすことを言っています。

 信仰が不健全で、神の言葉を受け入れることができなければ、その人の歩みのすべてが光を放つことなく、真理を現すことのない暗いものになります。すなわち、神の御心にかなったことを何一つできないのです。

 そして、「うちにある光」は、その人の持っている光のことですが、それが、真理の言葉を受け入れておらず、闇ならば、その闇は、何一つ神の前に御心にかなったものはなく、真っ暗なのです。

 イエス様は、天に宝を積むことを教えられましたが、その宝を積むためには、神の言葉を受け入れて、真理を現す者として歩まなければならないのです。

 これは、この地のものを求め、健やかな目を失った歩みと、御国の報いに目を留め、信仰によって強い力付けを受けている人の対比として示されているのです。

6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

 そして、神の言葉に従うことと、富との関係について教えられました。神に仕えることとこの世のものに仕えることが対比されています。そして、この世のものとして富が取り上げられています。そのどちらにも、同時に仕えることができないことを示されました。それは、一方を憎んで他方を愛し、一方を重んじて、他方を軽んじるからです。

 神に仕えようとするならば、この世の全てを憎まなければならないのです。また、それら対して死ぬのです。

 一方で。この世のものを愛し、重んじようとするならば、それを捨てるように言われる神を憎むようになります。

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちの(たましい)ことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 富は、この世の生活を豊かにするものです。それを追求することと、神に仕えることを両立することはできません。しかし、人は、自分の体のためには、食べ物を食べ、飲み物を飲まなければなりません。また、着る物が必要です。それらを求めてはいけないのでしょうか。ここには、そのような質問が想定されています。

 たましいが神の言葉に従うことは、霊的ないのちを経験することです。ここでは、たまたま「いのち」と訳されていますが、「たましい」という言葉が使われているのは、肉体の命のことではなく、霊的ないのちです。

 たましいによって表されている霊的ないのちは、食べ物以上のものです。たましいは、神に従う部分です。神の従うことは、何を食べるかよりも遥かに価値があります。食べ物は、体を養うためだけのものです。しかし、たましいは、神に従うことで神の前に価値あるものです。そのたましいがいかに振る舞うかが問題なのです。何を食べたとしてもその価値を変えることはできません。しかし、人は、食べる物のことを心配するのです。しかも、何を食べようかと心配するのであって、食べ物を選ぶのです。それが美味しいかどうかというような基準で、食べ物を選ぶのです。

 そして、体にとって、着物は、体を覆うためのものです。体が保たれることこそ大事なのであって、何を着たとしても体の健康を保つことには、ほとんど影響しないのです。それなのに、何を着ようかと心配する必要はないのです。

6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。

6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも(1ペキュス)自分のいのち(年齢)を延ばすことができるでしょうか。

 そして、その人の体がが保たれるのは、神様によるのです。空の鳥も、神様が養っていてくださいます。その鳥よりも遥かに価値がある人を神様が養わないことはないのです。

 さらに、人が食べ物について心配しても、年齢を少しでも伸ばすことはができるでしょうか。それは、神様が支配しておられるのであって、人が何を食べようが関わりないのです。どんなに健康に良い物を食べたとしても、その年齢を伸ばすことはできません。

6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。

6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

 そして、着るものについて心配することについては、花を取り上げて説明されました。花は、神様が装われたのです。そして、それは、ソロモンに勝るものです。そして、その花は、今日あっても明日には炉に投げ込まれてしまうような儚いものです。そのようなものに対しても、神様は、最高の装いをされるのです。それに比べて、人は、遥かに価値があるものです。ですから、人に良くしてくださらないことはないのです。そのように信じないことは、信仰が薄いのです。

6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

 すべてのことは、神様が心配してくださいます。私たちが心配する必要はないのです。

6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

 神様は、私たちの必要をご存知なのです。そのことを信じればよいのです。異邦人は、神様を信じていませんから、この世のことが全てであるかのようにしているのです。それで、食べるもの、着るものを切に求めているのです。

6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 それで、最も価値あることは、神の国と神の義です。神の国を求めるとは、神の国に入ることであり、それは、救いの立場を持つことだけでなく、報いを受けることです。報いを受けられるような歩みをすることです。また、神の義を求めることは、神の御心を行うことで、義の実を結ぶことです。それは、神の国を求めることと一つのことです。

 そのように、神の御心にかなう歩みをするならば、私たちに必要なものは、神様が心配してくださり、その必要を満たしてくださるのです。

6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 それで、明日のことについて心配する必要がないことを示されます。それは、神様が心配してくださるからです。私たちが色々と不安を抱くのは、何が起こるかわからないからです。しかし、全ては、神の御手の内にあることです。そして、その起こる問題に関しても、神様が解決を与えられるのです。私たちがそれを心配する必要はないのです。

 明日のことは、明日が心配しますと言われましたが、その事が起こるまで、何も心配する必要はないのです。たとい、問題が起こったとしても、神様が心配してくださるからです。

 労苦は、その日その日に十分あるのです。労苦がないので心配しなくてよいのではなく、労苦があっても、それを神様に委ねることができるからです。それでも、労苦は労苦です。しかし、心配はいらないのです。